〜私が産後うつになってから完治するまで〜救ってくれたのは…
私は娘が1歳4ヶ月の頃にうつになりました。
娘は第一子。
娘のことはとてもとてもかわいくて
ものわかりもよく、わりと育てやすいほうだと思います。(周りからも育てやすそうと言われる😅)
ぐずり泣きをすることも少なく、
授乳は1歳すぎに断乳しました。
食欲旺盛で、好き嫌いもなく、成長曲線ど真ん中をキープ。
旦那も自分にそっくりの娘がかわいく、
お風呂はほぼ毎日一緒に入っているし
私が家事をしているときは娘と遊んでくれたりするし、産後義実家で1ヶ月お世話になっていたときは(私は母子家庭で母が他界していて実家が無い為)、口うるさい義母に旦那がバシッと言ってくれたり、わりと頼りになります。わりと。
(育児を"手伝ってる"感はありまくりですが)
旦那は土日休みなのですが、
平日はというと、家でのんびり過ごすこともあれば、子育て支援センターにでかけることも少なくありませんでした。
私が子育て支援センターに初めて行ったのは娘が7ヶ月の頃。
まだ1人遊びもできないのに行っても、何したらいいんだろう?
ポツンになったらどうしよう。
会話に入れる自信ないし…。
娘が泣き出したらどうしよう…
途中で帰りたくなったらどうやって抜け出せばいいんだろう?
などなど、私が極度の人見知り&場所見知り?で、支援センターに行くまでにも
すごく時間がかかったけど、
行ってみたら、先生方が率先して質問してきてくれたり、他の月齢の近いママさんとあいだに入って話をしてくれたり、おもちゃや絵本もたくさんあるから誰とも話さなくてもなんとかなるし、
すごく居心地がよくて、
それからたまに行って、
いつのまにか、
私の楽しみは"先生たちとお話をすること"になってました。ママたちではなく😓
そんなある金曜日の夜。
突然、理由もなく、涙が溢れてきました。
ほんとうに、理由なく。
その前に何かあったわけでもない。
目が痛いわけでももちろんありません。
悲しくもありません。
ただ、涙が溢れてくるんです。
どうしたらいいのかわからなくて
楽しいこと考えよう!とおもってもイマイチ思いつかないし…
逆に、わたしは何に泣いてるんだろう?って思うようになって、自分の母の事かな?なんて考えてたら、本当に母の死を思い出して悲しくなってきてしまって余計にだめ。
夜寝る前だったので、とにかく布団かぶって横になってたら、
泣いてるうちに疲れて眠ってしまいました。
それが、私のうつの始まりでした。
一番初めに、この事を話したいなとおもったのが、支援センターの先生。
でもそれが金曜日の夜だったので、
土日は支援センターはお休み。
月曜日まで待つしかありません。
そのとき、"旦那に話す"ことは全く考えていませんでした。頼りにならないからとかではなく、それほど重要なことともおもってなかったので、
軽く、こんなことあってさ〜。程度に先生に話したいなと思ってたから。
ちなみに、土日も、同じく夜寝る前に理由もなく泣きました。(朝起きると普通で、昼間もいつもと変わらないのに)
そして、月曜日。
ちょっと早めに支援センターにいき、
まだ他のママたちがくる前に、
ちょっと話があるんですけどって、仲のいい先生と2人きりで(もちろん娘はいるけど)、
金曜日の夜からのことを話しました。
そしたら、そのとき、なぜか理由もなくなけてきて…
そんなに私、悩んでるのかな?って自分でも思うくらい…
それで悩みとか聞かれたけど、とくに思い当たらず、母の事かなぁ?とおもって話したらさらに泣けてきて…
またあの金曜日と一緒だとおもったけど、
そのときは支援センターで一番元気な先生なだけあって、私を笑わせて泣き止ませてくれました😭✨
そして、そのあと別の年配の先生にも同じこと相談したら、やっぱり母の話になって、
でもそのとき年配の先生に言われて気づいたのが、悲しくなるから母の事を思い出さないようにしてきたってこと。だから、思い出すと泣いてしまう。
でもその先生は、そんな私を抱きしめてくれて、
「泣いてもいいんだよ。あなたはひとりじゃないから。私が母親がわりになってあげるから。甘えてもいいんだよ」
って言ってくれて、もう涙が止まらなくて、
先生に娘預けて、授乳室の中で泣いてたら、さっきの元気な先生が入ってきて、ずっと抱きしめてくれて、また最後は笑わせてくれました。
それから、平日は毎日支援センターに通った。
そして、毎日泣いた。
実はこのとき、発症した翌日の土曜日からまともに食事を取っていない。
正確には、食事が喉を通らない。
なにをみても、まったく食欲がわかない。
旦那と娘の食事は作るけど、自分は1日おにぎり1、2個くらいの量。
支援センターに毎日通いだして1週間。
私がどんどん変わっていく。
まず、食欲がないから、お茶しか飲まない日もある。コンビニでおにぎり買っても、結局一口たべて、もうおわり。
そしてどんどん痩せていく。
どこの支援センターでも同じだと思うけど、
支援センターにつくと、まず受付で子供の名前と、月齢と、電話番号と住んでる町をえんぴつで記入するんだけど
それが、だんだん書けなくなってくる。
つまり指先に力が入らないということ。
最終的にヘビみたいなヒョロヒョロの字にまでなって、解読不可能だから先生に書いてもらったりしてました。
そして症状はそれだけじゃなく、
"音"にものすごく敏感になっていった。
子供が積み木を積む音、おもちゃとおもちゃをカチカチする音、支援センターに複数人いるママさんたちの話し声。
全てが頭に響いて、わーってなってしまって
その場に居られなくなる。
その時本当に、
あぁ…ついに私ここにも来られなくなるのか…っておもいました。
子供たちはみんなはおもちゃで遊ぶためにきてる。ママたちは交流を深めたり会話を楽しむためにきてる。
少人数なら大丈夫だけど、
大勢になるとあちこちからいろんな声がざわざわ聞こえてきて、プラスして赤ちゃんの大きな泣き声や、おもちゃの音。
子育て支援センターなら"当たり前の音"
それが苦痛なら私がここに来なければいいだけのはなし。
だから私は帰る。
そうおもって、まだ朝きて30分も経ってなかったけど、帰る準備をした。
2月だったので、上着をきて、荷物を持って、娘を抱えて出ていこうとしたら、
先生に声かけられた。
「どうしたの?」って。
正直に音のこと話して、「帰ります。」って、
足早に靴箱へ向かったら、
他の先生も来て、ひとりの先生は私のリュックをもち、娘と手を繋ぎ、もうひとりの先生は副施設長に話に行き、もうひとりの先生は私に、「こっちにおいで」って。
連れてかれたのは、先生たちがいつも昼ごはんを食べてるバックヤード。
テーブルにイス4つ、小さな冷蔵庫とポット、おもちゃを除菌する機械?が置いてあるだけの部屋。
そこに娘が喜びそうなおもちゃを持ってきてくれて、「ここなら音、気にならないでしょ?」って。
「でも、私だけこんな特別扱いしてもらうわけにいかな…」っていいかけたら、
「全然特別扱いなんかじゃないよ?みんな、他のママも、入ってもいいんだよ?だからここでゆっくりして」って。
でも、そこに先生以外が入っていくのを見たことは一度もない。完全に仕切られてて、先生以外立ち入っちゃいけないようなところ。
その日、引き止めてくれたおかげでそれからも、私は支援センターに毎日通い、人が多くなってきたら人が少ない部屋に移ったり、全部が人が多くなったら、バックヤードへ行ったりして過ごしました。
そんな中で、同時進行で行なっていたのが、
通院。これも、支援センターの先生と、
支援センターの先生が声かけてくれた保健師さんが、私がほとんど食事がとれてないのを心配して、いつも行ってる内科でもいいから、一度行ってきたらどうかな?って背中を押してくれて、内科へ行ったんだけど、
2週間くらい通って内服や漢方も処方されたけど、改善がみられなく、
どんどんガリガリになっていって、ふらつくことも増えてきて(※この時身長151cm、体重34kg)、
支援センターには車で通っていたのもあって、何かあったら危ないし、
こんなんじゃ子供も守れないし、
私もそろそろ本当にこれはおかしいって思ってきてたので、
内科の先生に招待状を書いてもらって、
精神科へ行ってきました。
(そこで初めて、原因は母の死ではなく、育児の可能性がでてきた)
長くなったので、次へ続きます。